思弁徒歩紀行

[#01]引きこもり、外に出る。-思弁徒歩紀行-

2025年3月2日

私は決して引きこもってやろうと思っていたわけではないが、今思い返して見れば「引きこもりではない」と言い切るのは少し厳しい。

絶対外に出られないわけではなく、外が暗くなって人通りがほど0になった時には最寄りのコンビニまで足を運び、店内放送を聞くことで社会との接点を見出してていたりしていた。
私自身の認識としては、引きこもりであるというよりは、誰よりも家賃の元を取ろうとしていただけであった。

つまりは引きこもりである。

しかし外の世界では恐ろしい速度で時間が過ぎていき、気づけば年が明けていた。
さすがにこんなことではいけないと感じ始めた。 もともと何か用事がなければ極力外には出ないタチだったが、この状態では用事の立ちようもないので尚更である。

散歩に出よう。

外に出る用事を待っていたらいつまで経っても立ち上がれない。
そんな情けない確信だけがしっかりとそこにあった。

いざ一人で外に出るとなるとめっぽう不安だ。
とりあえずあまり歩いたことのない道を選んでみたり、イヤホンを耳に詰め込んで好きな音楽を流してみたりして気を紛らわした。
とりあえず西にむかって歩く。
京都の五条通りは京都らしくないほどに道が広い。とんでもない交通量で観光客の多さなんて目もくれずに車がどんどん走り抜けていく。けれども今の私にとっては人混みよりもずっとそっちの方が落ち着く風景だったりした。

町の方に抜けていくと地元を賑わす小さな店がちらほら出始め、観光地エリアを脱出できたのだなと安心する。
ふと目を上げたら知らない産婦人科の看板があった。

「種田(おいだ)産婦人科」

種田という文字においだというルビがふってある。
なんだその名字。初めて見た。
種田という字面自体はそこまで珍しくもない気もするけれど、まさか「おいだ」と読むとは思わない。
きっとこの人は名刺を交換するたびに「おいだと読むんです」と説明しているのだろうし、それを説明されるたびに「珍しいですよね。初めて会いました」と言われ「よく言われます」と返しているだろう。
そんなやりとりを人生で何万回もやっているんだろうな。
珍しい名字に憧れる気持ちがある私だったが、字面は見慣れているのに読み方だけ特殊という珍しさもかっこいいなと、私の中の「かっこいいものリスト」に新しいものが追加された。

引き続き町を歩いていると、この季節はよく地面に手袋やマフラーが落ちていたりする。
落とし物はどんなものでも少しわくわくさせてくれる。会ったこともないし、今後も生涯会うこともない持ち主の誰かの物語にそそられる。
そんな中でもとくにときめくのは、道に落ちているマフラーをちょっとした塀にかけてあげている様子だ。
誰かが落としたものを誰かが拾って「拾いに来たときに見つけやすいように」という小さな祈りと一緒にどこかに掲げてあげる。そんなささやかなやりとりが町に残っているのがなんとも微笑ましい。
中にはパーテーションのポールに結びつけてあげたりもしていて、風に飛ばないようにという配慮まで見えたりする。
もし自分がマフラーをなくし、この様子で見つかった暁にはしびれてしまうとおもう。
そんな優しさが持ち主に届く保証もなく町に漂っているのがうれしくなる。

ほかにも町を歩いていると、珍しいプロポーションの自販機、文字が消えたせいで面白文法になってしまっている看板や張り紙、子供がいない割にやけに広い公園、知らない間に改装してぴかぴかになった銭湯、臨時休業中の和菓子屋……

なにも用事がなくても、思った以上に外の世界は楽しかった。
なんでもない風景にも、どこか物語以下のなんでもない脈絡があり、それが町を儚くも彩っている。

外に出た記録をつけよう。なんでもない日々を書き続けよう。そしてその日々の記念碑を彫り出そう。

なのでまずは日々散歩をしよう。ガンガンしよう。
それが一番いい。
そんな小さな確信がしっかりとそこにあった。

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