小説

一旦全員名前を覚えさせてくれ-『罪と罰』作:ドストエフスキー について-

2023年1月8日

言わずと知れた名作文学『罪と罰』

これだけ時間を持て余しているというのにいまだに読んだことがなかった。

思えばこういった「知っているが読んでいない/観ていない」という作品は驚くほど多い。

夏目漱石や谷崎潤一郎、三島由紀夫なども一、二作しか読んでいないし、海外の文学作品となると尚更だ。
サリンジャーやオーウェルなどに至っては一作も読んでいない。

これは由々しき自体だと思い、少しずつそういった作品を読んでいこうと思った。

ドストエフスキーは何かしら他の作品でも引用されることも多く、興味はあったがそのいかついタイトルから手を伸ばしづらい印象があった。

しかしそういったハードルの高いものからこそ手を伸ばすべきではないのか。

かくいう訳で私は『罪と罰』を読まねばと決意したのだった。

『罪と罰』を読もうとする

AmazonのKindleストアで『罪と罰』を検索する。
多数の出版社から各翻訳での『罪と罰』が並ぶ。

この時点でもうめんどくさい。

どれを読めばいいんだ。どれを。

しかしこんなところで躓く訳にはいかない。
せっかくAmazonで探しているのでレビューなどから翻訳の評判が良いものを選ぼう。

どうやら翻訳によっては本作は非常に読みづらいものがあるらしい。

ざっと調べたところ、評判は良いのは米川氏の翻訳。
そして角川の『罪と罰』は米川氏の翻訳を現代でも読みやすく改訂した訳で再編されているようなので、それを選ぶことにした。

何より表紙のデザインがいい。
仰々しい明朝体でデカデカと『罪と罰』と書かれている訳でもなければ、ドストエフスキーの気難しそうな肖像画なども書かれていない。

ただでさえタイトルが『罪と罰』だ。
こんなに重苦しいタイトルはなかなか無い。

『地獄変』『屠殺場5号』などイカついタイトルは他にもあるが、なんせ『罪と罰』だ。

『罪と罰』と最も遠いタイトルは一体なんだろうか。
罪も罰も重たいし、字面も威圧感がある。
軽くて、能天気なものがいい。

『グミとバブ』

絶対に殺人など起こらない。
完全にOLの休日物語だ。
コンビニで買ったお菓子をつまんで、いつもより早い時間に入れたお風呂にバブを入れてのんびり長風呂をするのだろう。
浴槽にはジップロックに入れたスマホなんかを持ち込んで、先月くらいからずっと気になっていたワンピースを買うかどうか迷っている。
これ、可愛いんだよな。でも値段も結構するし。この前のセールの時に思い切って買っちゃえばよかったかな、なんて。

何が面白いんだ。

私はそんなものが読みたい訳ではない。
何をぐずぐずしているのだ。
『罪と罰』は角川文庫で上下巻に分かれている。
読む前からこんなことを考えていたら話にならない。

ともかく、こんなに威圧感のあるタイトルに威圧感のあるページ数なのだ。
せめて装丁は重々し過ぎないものがいい。

『罪と罰』を読み始める

『罪と罰』はそのあらすじもタイトル同様有名だ。

その年、ペテルブルグの夏は暑かった。大学を辞め、ぎりぎりの貧乏暮らしを送る青年ラスコーリニコフに、郷里の家族の期待が重くのしかかる。この境遇から脱出しようと、彼はある計画を決行するが……。

https://store.kadokawa.co.jp/shop/g/g200807000308/

これはOLの休日話でもなんでもない。
主人公である青年、ラスコーリニコフが独自の思想から殺人を犯してしまう話である。

物語はラスコーリニコフが金貸しの老婆アリョーナ・イヴァーノヴナの元へ行くところから始まる。
殺人の計画のため、のちに殺害を行う現場で金品の保管場所などを下見するラスコーリニコフ。

このタイミングですでに殺す気満々である。
てっきり作中のさまざまな物事が彼に殺人を起こさざるを得ない状況へと導くものかと思っていた。

彼は初めから特殊な思想を持っているのだった。

それは「選ばれし天才は世のためならば法を犯す権利を持つ」という偏ったものだ。
彼はそういった存在としてナポレオンを挙げ、しかもその非凡人に自分が含まれているという考えを持っている。

彼はその大義名分のもと、悪名高い高利貸しのアリョーナだけではなく、現場にたまたま居合わせたアリョーナの義妹のリザヴェータまでも殺害してしまう。

彼は自身の理論上では正しいと思っているはずの殺人に罪悪感を感じながら、道中巻き込まれた事件や家族とのやり取りを通して、自分がしてしまったこと、自分がすべきことに向き合っていく…

という訳なのだが、一旦待って欲しい。

登場人物がさっぱり入ってこない。

2ページ進んでは「誰?」となって5ページ戻るという愚かな読書ペースを叩き出している。

このままじゃダメである。

一旦登場人物を整理しよう。

まず主人公。
彼の名前はロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ
本文では「ラスコーリニコフ」と書かれる。
友人や家族からは愛称の「ロージャ」と呼ばれる。
稀に身内からも「ロジオン」と呼ばれることがある。
警察などからは「ロジオン・ロマーヌイチ」と呼ばれる。

そして主人公の妹。
彼女の名前はアヴドーチヤ・ロマーノヴナ・ラスコーリニコワ 
本文では「アヴドーチヤ」と書かれる。
ラスコーリニコフなど家族は「ドゥーニャ」と呼ぶ。
他の人間は「ドゥーネチカ」と呼ぶ。

そして物語の大きな役割を担う娼婦のソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ
彼女はラスコーリニコフや家族から「ソーニャ」と呼ばれる。
それ以外の人からは「ソーネチカ」と呼ばれる。

もう勘弁してくれ。

ただでさえ海外の文学は人物名を覚えるのが大変だというのに、なんてことをしてくれるんだ。
もう訳がわからない。頭が割れそうだ。

上記ではまるで登場人物ごとに呼び方は固まっているかのようにまとめたが、実際はそうではない。
同じ登場人物でも呼び方がコロコロ変わったりすることも多い。

人物が異様に多いミステリー小説ほどは無いのだが、この作品は家族や親戚関係の人間がそれぞれ出てくるので、似たような響きの名前が多い。

それに振り回されていると、この愛称呼びなどに意識をまかれる。

こんなに厄介なのは初めてだ。

『罪と罰』の登場人物を覚えようとする

冷静に覚えていくことが大事だ。

アガサクリスティーの『オリエント急行殺人事件』を読んだ時もそうだったが、カタカナの名前を覚えるのは大変だ。

日本名だと「青木」とか「藤田」という響きに聞き馴染みがある事と、聞きなれない苗字でも「椹木」とか「榊原」とかは漢字を記号的に覚えることができるので、名前が覚えられないという事態に陥る事は今までなかった。
しかし今回はロシア名だ。〇〇コフとか、〇〇チカとかがたくさん出てくる。
そこに焦点を当てずに覚えていくことが大切だ。

そもそもロジオン・ロマーヌイチがロージャと呼ばれても確かに何もおかしくないじゃないか。
「田倉太郎」とかが「たっくん」と呼ばれているようなものだ。

つまり主人公は「ローなんとかラスコーリニコフ」と押さえておけば見失う事はない。
そして妹は「アヴドゥーニャなんとか」と押さえておけばどれが出てきても安心だ。
ソフィヤは「ソーなんとか」だ。

この作品を愛読している人には怒られるかもしれないが、許して欲しい。

こっちも必死なのだ。

『罪と罰』を読み進める

登場人物を覚えてしまえばこっちのものだ。

重たく暗い作品だとばかり思っていたが、これが意外と面白い。

老婆殺害の容疑を一時的にすり抜けたラスコーリニコフが一番心配していたのが、妹ドゥーニャの結婚相手だ。
えらい余裕である。
しかしそれも無理もない。妹は家族に裕福な生活をさせるために特別惚れ込んでいる訳でもない弁護士と結婚しようとしているのだ。
母親もその弁護士のことをイマイチ信用できていないと手紙をよこす訳だから、ラスコーリニコフが不安に思うのも訳ない。

そして実際会ってみたらこの弁護士であるルージンという男が嫌なやつなのだ。
ラスコーリニコフは当然結婚を反対し、ルージンとも揉めてしまう。

このルージンはプライドが高く、虚栄心も強い。
ドゥーニャに対する態度も偉そうで、彼女を支配しようとする高慢な態度を取り続ける。
結局ルージンはドゥーニャとも婚約は破談し、のちにソーニャを嵌めようとするがその目論見も皆にバレて信頼を失ってしまう。

彼は始終"ダサい男"として舞台に立つことになる。
このルージンが登場しているシーンはどれも、喜劇のような馬鹿馬鹿しさが付き纏う

ラスコーリニコフは二人も殺しているというのに呑気なものだ。

しかし、そんなシーンも束の間、彼は予審判事(警察のようなものだと思えば良い)のポルフィーリイから老婆殺害の容疑をかけられてしまう。
それまで余裕しゃくしゃくだったラスコーリニコフも、ポルフィーリィに詰められることで、"人殺し"であるという意識が育っていく。

このポルフィーリイとのやり取りは、ルージンとのやり取りから打って変わって探偵小説のような緊張感だ

そしてラスコーリニコフは自身の罪をついにソーニャに告白する。
自分の行動が罪であるか、自分は罰を受けるべきなのかを見出せないまま、何を求めてか彼はソーニャに全てを話すのだ。
最初はソーニャに高圧的な態度をとっていた彼も、次第にソーニャの力強い精神にもたれかかるようになっていく。

愚かなほどに寛容で、不幸なくらいに神を信仰し続ける彼女が、ラスコーリニコフの心を解いていく流れは恋愛小説のようだ。

名前を覚えることごときに四苦八苦していたが、それぞれの登場人物とでまるで違う表情を見せながらグルグルと巡っていくラスコーリニコフの心情を追うのが面白い。

タイトルほどずっと暗く、重々しい読み心地ではなかったのが一番の救いだ。

『罪と罰』を読み終える

ラスコーリニコフの自首とその後を見届けた頃には私は彼らの名前などバッチリ覚えていた。

小難しい感想や評論などを書ける訳でもなし、そういった事はもっと賢い人たちに任せよう。

とにかく『罪と罰』を読んだぞという達成感が大きい。

昔良くしてくれた教授が「エジプトに行ってピラミッドを見るのは"観光"じゃなくて"確認"だ」と話してくれて爆笑したことを思い出した。
ピラミッドを指差し「よし!ある!」と思ったらしい。そりゃあるだろう。
でも少しわかる気もする。

私もシベリアに送られたラスコーリニコフを指差し「よし!終わり!」と思った。

次はやはり『カラマーゾフの兄弟』を読むべきなのだろうか?
しかしあれも確か上・中・下巻と三巻に分かれるほどの長編大作だった。

面白かったからいいものの、また連続でドストエフスキーを読むのは骨が折れそうだ。

次に何か読むならもっと逆のテイストの作品がいい。
OLとかが主人公で、休日にコンビニで買ったお菓子をつまんで、いつもより早い時間に入れたお風呂にバブを入れてのんびり長風呂をするやつだ。
浴槽にはジップロックに入れたスマホなんかを持ち込んで、先月くらいからずっと気になっていたワンピースを買うかどうか迷っている。
これ、可愛いんだよな。でも値段も結構するし。この前のセールの時に思い切って買っちゃえばよかったかな、なんて。

無茶苦茶ちょうどいいじゃないか。

『グミとバブ』にも需要はあった。

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