身体が動かない。
連絡が返せない。
やらないといけない事が山のように積み上がっているのに。
できていないといけないことが海のように広がっているのに。
私は2022年の5月頃、まるで社会の役に立たない毒蟲のように、布団にうずくなることしかできなくなってしまった。
以前の私は美術関係の仕事をしていた。
20歳の時、美術系大学の在籍中に、店舗スペース付きの安い賃貸を借りてギャラリースペースをオープンした。
それから大学を出てからは他所のアートスペースでの展示企画の仕事を任されるようになり、契約社員として働いていた。
また、同時に立ち上げられたばかりの他のアートスペースでもディレクターを任され、いわば三足の草鞋で生活を送るようになっていた。
仕事場となる各環境にあった作家をオファーし、交渉、展示内容などを作家などに合わせて打ち合わせ、作家によっては制作の相談などを受けながら展示を作っていった。
そして展示会場に案内として設置されるステートメント(紹介/解説文のようなもの)を書くのが何よりも楽しかった。
展示会場として動いているスペースは、レンタルをする場所と企画展示だけで運営する場所にざっくり分けられる。
レンタルとなると、安くはないレンタル料を利用者からもらい、それを主軸の収入源としていく。
逆に企画展で回していく場所となると、レンタル料は取らずに、作品の売買が発生した際の仲介料を収入源としていく。
私が自身で立ち上げたスペース「yuge」という場所は、レンタルと企画を共に行う場所だった。
できるだけひらけた存在でありながら、私が面白いと思った作家には積極的に声をかけて展示をしてもらっていた。
「yuge」という場所は、京都に大勢いる若手作家の発見/発掘を目的にしていた。
未だ無名ながらも面白い作品を作っている作家を拡散できればと思い、京都内外で行われる展示に足を運び、作家とやりとりをして企画などを進めていた。
しかしこの場所は私が一人でやっていたため、展示期間中の在廊を作家さん自身にお願いすることがとても多かった。
うちのスペースの傾向的に、取り扱う作家さんは作家業と別に副業で生計を立てていることがほとんどのため、期間中にバイトに入れないなどの事情は死活問題なのだ。
無名のギャラリーでの無名な作家の展示。
作品が売れて作家と場所にお金が動くことがあれば何よりだが、なかなかそんなことは起きない。
これは紛う事なく私の力不足による作家への負担だ。
まだ見ぬ作家のためにという大義名分で、私は作家たちに新たな負担の機会を作っているのかもしれない。
私は場所の認知を上げて、作家や来場者に注目される場所まで0から育て上げて、その負い目を払拭しなければならなかった。
そんな中で、仕事をさせてもらえるようになったビルがある。
ギャラリーや美容室、バーなどがテナントに入ったカルチャービルだ。
そこでは定期的に展示やDJイベントなどが行われていて、それはビル全体をキュレーションするディレクターによるものだった。
私はそこでアシスタントのようなポジションと雇われ、自身の企画もちょこちょこやらせてもらえることになったのだ。
当時はボロボロの賃貸を改装して作った狭いギャラリーだったyugeという場所の力のなさに負い目を感じていた私は、この仕事で今までこんなyugeに関わってくれた作家さんたちにお返しができるかもしれないと思い喜んでいた。
けれどもその実態は、それほど華やかなものではなかった。
運営母体である不動産会社はそのビルが大改装された際の赤字をなんとか回収したい。
そして大きなビルは展示を回し続けなければどんどん赤が増えていく。
フリースペースとして空いているフロアにイベントや展示のスケジュールを詰めて、なんとか作品を売買しなければならないのだ。
内に入ってみれば、ビルのディレクターの内輪の友達を呼んで回しているだけだったビルは、外からの作家の呼び込みが必要として私の企画のウェイトがどんどん増えていくようになった。
そしてまた一方、立ち上げたてのギャラリーバーがあった。
気さくな店長と話して、私はそこで展示の企画をまかしてもらえることになった。
店頭に立ってお酒を出したりコーヒーを入れたりしながら、展示のお客さんには会場では作品解説をする。
それを他のスタッフにもできるように情報を噛み砕いて共有する。
ここでももちろんスケジュールを埋めなければいけない。
yugeでの経験や繋がりがあったため、最初こそ多くの作家が協力してくれ、当時のyugeよりもずっと立地も良く、広い展示スペースに案内する事ができた。
しかしどの展示も売り上げは上々とは中々いかない。
有名な作家さんへのオファーが通ったり、大きなアートフェアと絡んだ展示企画の時は作品が動くことはある。
しかし、私が右も左もわからないまま、少しづつ進めてきたyugeという場所での繋がりやノウハウも無論限界があった。
3箇所のアートスペースのスケジュールを埋めなければならない。
それぞれ意義のある展示企画を練って打たなければならない。
それぞれの場所に立って、来場者に解説や案内をしたり、在廊して作家の負担を減らさねばならない。
できる限り作家にとって苦しくない条件をそろえて、場所の運営にはダメージの少ない采配で上に提案して、より面白い展示を。
そしてお金が動く際に私が相手にしているのは、いつも名刺に「代表取締」と書かれた立派な地位の方々だった。
想像もつかない責任と賃金で生活を送っている人たち。美術作品を購入する人の大多数はこういった層だ。
全く違う世界で生きる彼らだが、私は作家の魅力や作品についての意図を説明しなければならない。
けれど、足りない頭で練って放った私の案内に返る言葉は、いつもいつも無垢のゴム毬のようにボテンと足元に落ちる。
この作家さん値段が上がってきているね。
赤い絵を家に置きたいんだ。
この作家さんは伸びそうですか。
賞をもらっていたから値段上がりそうですね。
だめじゃん、東京じゃもっと売れてたよ。
これのサイズ小さくして値段抑えたやつなら一枚持っておきたいな。
あのコレクターの人、裏で転売しているらしいよ。
やっぱ感性のある人にどれ買うか選んでもらうのがいいよね。
なんだこれ。
なんだこれなんだこれなんだこれ。
美術は文化として面白い。
宗教、政治、社会背景、文学、文明の進化、哲学、音楽、社会学、すべての人間の営みを背景にした文化で、それが途方もなく面白い。
それがどうしようもなく愛おしくて、場所を作った。場所に立った。
なのに自分がいるここは一体どこなんだ。
どこに向かっているんだ。
いい展示をして作家の良さを拡張していくため、作家に企画を提案して、スケジュールを埋めていく。
そのはずが、気づけばスケジュールを埋めつつ、上に収益面でも満足させられるように作家に声をかえ、場所を使ってもらう。
そんな情けない逆転が起こっていた。
そこに作家のためにという大義名分はひとかけらでも残っていたのだろうか。
しかし、この3足の草鞋を選んだのは私だ。
被害者ぶっているようだが、自身の生活と、自身のスペースの運営維持のためにお金が必要だと、その場所を変えるでもなく居座り続けたのは私の判断だ。
なんのためにこれを続けている?
何が変わった?何が伝わった?本当に面白かった?
もう無理だ。
そうして私は当時京都の下鴨にあったyugeを一度閉めることを決めた。