随筆

【#02】偏心 - 鬱病日誌 ["キュレーター"というステッカー]

2023年1月25日

下鴨のyugeを閉めよう。

3足の草鞋でも心を保ってこれたのは、「自分には自分のスペースがあるから、そこでは思いっきり好きなことをやればいい」という線引きができていたからだ。

けれども、このボロボロで狭くてアクセスも悪いyugeは、今や一番作家にとって価値のない場所になってしまっている気がした。

仕事を受けている他のスペースはアクセスもよく、展示スペースも広い。
常駐しているスタッフもいるので作家への負担も少ない。

自分のyugeでの経験をここに?
そもそも無い金でなんとか間に合わせた施工で、寿命も切れかけのダクトレールに不安を感じながら、在学中の立ち上げということで甘えっぱなしだったyugeでの経験なんて、最初からほとんど0に等しかったのだ。

私は仕事だけをして、まずは改めて勉強をしよう。
そう思うことにした。

けれど、そこで複数の作家さんから連絡があった。

yugeを閉めるということについて惜しむメッセージを送ってくれた人たちが数名いたのだ。

私は震えながらやり取りをした。

他所の場所へ出て、"ただ続けてきただけ"の自分の場所にいかに価値がないかと思っていたけれど、そんな場所でも展示をしてくれていた作家さんはyugeがなくなることを惜しんでくれたのだ。

私は結果的に下鴨のyugeは閉めることを決めたが、東山の別の物件に移転することに決めた。
一人でやることに限界を感じていたので、2階を事務所にして運営メンバーを集めた。

そこからは多くの人が協力をしてくれて、なんとか移転を済ますことができたのだ。

ここから改めて始めよう。
頼れる人と一緒にならやっていけるだろう。
応援してくれる人も多くいることがわかった。

結果的に家賃的な負担は少し増えてしまいはしたが、立地も向上し、スペースとしても使いやすい施工を施すことができた。

一番優先すべきだった自分のスペースが、一番の精神的負担となり、仕事での割り切りを阻んでいたが、これからまた始めよう。

そう思っていた矢先、仕事を受けていた二つのスペースで変化が起きていった。

まず、ギャラリーバーに、新たにキュレータースタッフが入ることになった。
これは最初私一人で企画を組んで作家とのやりとりや搬入出を組んでいた中で、救いになるかと思っていた。

しかし、その方はキュレーターとは聞いていたものの、作家の接待や、他の所属場所の業務があるため現場にはほとんど現れず、結局仕事の負担は変わらなかった。
以前私がそのギャラリーバーのオーナーと交渉していたけれど運営の負担になると保留されていた物事を、その人は作家の意見だという言葉を盾に遂行した。私にはできないことだった。
必要とされる業務はその時期から増え、店舗スタッフにも現場にいない人間からの指示が増えていった。
場を回してくれているバイトスタッフの愚痴を聞くことが増え、スタッフは誰もオーナーや新スタッフの意向がわからないという状態がどんどんと悪化していった。
結局キュレーターが一人入ったという形式にはなってはいるが、作家にマネージャーのように張り付き、展示設計やテキストはすべてこちらに丸投げで催促だけされるという状況で、ただ負担が増えるだけだった。
会場の現場よりも運営上部に張り付くようになったキュレーターは、展示のキュレーションをすることはなかったが、コネで大規模なアートイベントとのパイプを作り、結果的に一杯一杯の私なんかよりもずっと大きくギャラリーバーに貢献した。

そして、ギャラリービルの方では東京のキュレーターからの展示の相談が来るようになった。
人気な作家の所属レーベルのようなところを担当している人で、展示の設営が終わると会場に現れ、お酒を飲んで帰っていった。
のちにビル内にあるもう一つのギャラリーのディレクターの方と話し合って展示を企画した際、そのキュレーターがふらりと現れ、東京でも巡回をさせてほしいという話になった。
各会場での展示環境がまるで違うため、出品作品や展示方法はそれぞれの地方のディレクターが会場で作家と決めていくことになった。そして私はそれぞれの作家からの制作意図を聞き込みテキストを仕上げ会場を整えた。けれど、どうやら東京会場は作家に展示のほとんどを任せているようだった。
結果、複数箇所開催と大きく告知した展示は、特に展示の内容には触れずに、他メディアとのパイプで告知を大きく広げた東京のキュレーターが大きく貢献した。

キュレーターってなんなんだ。

美術の展示の企画をしたり、作家の作品の意図を専門分野から読み解き再翻訳をかける。
そんな研究者としての側面を持った存在がキュレーターだと思っていた。
どうやら私が憧れていたキュレーターという大きな存在は、流行りのステッカーのように肩書きにベッタリと貼られるものになってしまったようだ。

場所を立ち上げて、展示の企画をして、それでもまだまだ学のない私は、あくまで作家と来場者の間を繋ぐ仲介者として足らないながらもディレクターを務めてきたつもりだった。
自分が遠く眩しい存在だと思っていたキュレーターは、何を持ってその名をたらしめるのだろうか。
勝手にキュレーターという存在を神格化して卑屈になっていた私は、"キュレーター"と関わり、ますます自分が羨望の目で見ていたはずのものが何なのかわからなくなっていった。

作家と夜な夜な連絡をとり、作品の試作品を見合わせ展示単位での方向性を修正したり、設営時の作品の見え方や設置方法、各作品への印象がどう干渉するかなどを話して調整を続けた私は、それでもキュレーターを名乗る気にはならない。

キュレーションとはなんなんだ。

このアートディレクターという肩書きでさえ、自分にそぐわないのではないかとビビりながら、それでも素敵な展示を開くスペースのディレクターや、活躍するキュレーターたちを底から見上げて仕事を続けてきた。

この肩書きに足りない自分は、いったいいつまで、どこを目指し、何を成せばいい?
その盗み出したような"キュレーター"のステッカーはいったい何を成している?

爆発しそうな劣等感と嫉妬を抱えたまま仕事を続けていた、ある日。
私はギャラリービルの運営母体に呼ばれ、コロナによる経営不振でギャラリー業を縮小し、仕事がなくなることを告げられた。

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