随筆

【#05】偏心 - 鬱病日誌 [好きなものを積み上げて]

2023年1月28日

二週間に一度、病院に行くために外に出るようになった。
恋人が同伴してくれているおかげもあって、以前のような動悸は起こりづらくなった。

それでも小刻みな波のように全てが恐ろしい日がやってくる。

自分は何もできずに一歩も動けていないままなのに、どんどんと時間が過ぎていく。

自分は何がしたくて、何のために、どうやって頑張っていけばいいのかが分からなくなる。
そもそも私は、ずっと自分は"頑張れない"人間だと思っていた。
どんなに悔しくても苦しくても、どんどんと周りに追い抜かれてもそれを外にうまく吐き出せない。

幼少期の徒競走を思い出す。
運動神経も悪く、内向的で、インドアな趣向だった自分は、トドメと言わんばかりの早生まれで、いつも徒競走はみんなの背中を見ていた。
誰も早く走る方法を教えてくれなかったのに急に競走だ。追い抜かれて追い抜かれて、知らない間に競うためのレールは、最後の自分がゴールをするのを待ち眺められるショーケースのような場所にすり替わっていく。
そして完走した幼い私は大人から「よく走った」と慰められた。
そんなわけがない。「よく走った」のは一等の彼じゃないか。

優し過ぎる嘘で慰められる惨めさが、こなくそと脚を振り上げられなかった自身の陰気さが、いつまでも自分にまとわりついている気がする。

好きな物事にはもちろん真剣だし、奮闘もする。
だけど、わかりやすいがむしゃらさや情熱といったものを表面化するのがどうも苦手なままだった。

転勤族で友人関係が悉くリセットされる私にとって、内省をその場でアウトプットして周りに理解してもらうよりも、周りを読み込んで対応する方が楽な生き方だった。
それは自分にかかった小さな呪いでもあったし、生存戦略でもあった。

そんな性格の自分を奮わしてくれた、大切な趣味たちへの想いもすっかり凪いでしまっていた。
以前は楽しかったはずの美術鑑賞、読書、音楽、映画、ゲーム、漫画をまた楽しめるようになるには時間がかかった。

自分は何が楽しかったんだろうか。
何に感動してこんなに物を集めていたのだろうか。

画集、展示図録、小説、漫画、CD、レコード、カセット、DVD、楽器、ゲーム、コーヒーミル、CAMELの刻印が入ったジッポライター…

自分の"好き"の証明書を集めるような、そんな必死さで私は自分の部屋をどんどん狭くしていった。
それはきっと自分自身のエゴやアイデンティティを守るための要塞のように積み上がっていた。
けれどもこんなに分厚く仕上がった壁は、私を何から守ってくれるのだろう。
私はこの要塞の中でプライドをも積み上げて、一体何を掴もうとしていたのだろうか。

the pillowsの「TRIP DANCER」の歌詞にある。
『僕の振り回す手が 空に届いて あの星を盗み出せたら何か変わるのか』と。

ASIAN KUNG-FU GENERATIONの「桜草」の歌詞にある。
『一日中毛布にくるまって 世界から逃げる 傷付くことはなかったけど 心が腐ったよ』と。

銀杏BOYZの「ぽあだむ」の歌詞にある。
『僕の部屋は僕を守るけど 僕をひとりぼっちにもする』と。

シュリスペイロフの「アパートメントの宇宙」の歌詞にある。
『TV消したら静まり返る 地上から離れるポツンと光るアパート 応答したくない 応答したくない』と。

theピーズの「生きのばし」の歌詞にある。
『死にたい まだ朝目覚ましかけて 明日まで生きている 痛み 小銭 眼あけたまま ヤケ起こす熱も出ない』と。

この不安と憂鬱は梶井基次郎が描いていた。

この空っぽの衝動は町田康が描いていた。

かき集めてかき集めて、自我を象ってくれるものを詰め込んでいた。
自分の"好き"は何か実を成すと思っていた。
しかし私が必死に水をやっていたのは、徒花に他ならなかった。

この物々への依存をぶっ壊してくれる"タイラー・ダーデン"はいない。

何もないと思うと、本当に何もなくなってしまった。

社会との関わりを拒みながらも窓の外を眺める毒蟲のように、私はインターネットを眺め続けることしかできなくなった。
かつて好んで食べていた白いパンとミルクが喉を通らなくなり、残飯しか喰らえなくなったグレゴール。
好きだったものに心が揺れなくなる変化が、どうにもそれに重なり私は余計に不安になった。

心がどこか前へと向かうための拠り所を失い、すっかり傾いてしまった。
姿形はそのままなのに、生きる重心を失ってしまった。偏った心はどうやって持ち直せばいいのだろう。

なぜ自分は制作よりも展示の企画を楽しんでいたのだろうか。
なぜ自分は好きな物をこんなにも集めるのだろうか。
なぜ自分はこんな場所を作ったのだろうか。

そんな永遠に続く不透明な日々の中で、私は幼少期を思い出していた。

私の家族は仲が悪いわけでもなく、とっても仲良しというわけでもなく、時々喧嘩もするくらいの家だった。
私よりもずっと溌剌としていた姉は、よく親と喧嘩をしていた。
そして父と母は、小さな小言を言い合うような小規模を喧嘩をしてはやめ、してはやめという関係だった。

今思えば健全な程度の不和だ。みんな仲良しこよしの家族だなんて気持ちが悪い。

けれども一番最後に家族の一員として生まれた私にとって、それは小さなノイズのように積もっていった。
喧嘩というよりも、そもそもコミュニケーションが成り立っていないような感覚があった。
姉と母の会話、姉と父の会話、父と母の会話、姉と私の会話、そして家族4人での会話。
どこかで必ず歯車が壊れるように口論が始まる。
大体私は黙ってその場が収まるのを待っていた。
数秒前まで普通に会話していたはずなのに、気付けば誰かの眉間に皺が寄っていた。
ただただ私は悲しかった。

口を聞かないような酷い関係性はほとんどなかった。
けれども、口を聞かない方が良いのでは?と思ってしまうような会話のラリーが多かった。

何でこの人たちはすぐに揉めるんだろうか。
何で人の話を最後まで聞かないんだろうか。

ただ、私は母親の話を聞くのが好きだった。
面白い映画の話や、小説の話をよくしてくれた。実際実家にはDVDや本が多く並んでいた。
図書館やTSUTAYAに毎週行く習慣があったのは、母のおかげだった。
好きな映画や小説を見つけた時、母親はよくその話を聞いてくれた。

そして、私は父親の話を聞くのが好きだった。
格好良い音楽や、知らない漫画をたくさん教えてくれた。父の部屋は今もレコードとCDで壁がいっぱいだ。
世代じゃない音楽や漫画の話で年上に気に入られることがあったが、それは父のおかげだった。
好きな音楽や漫画を見つけた時、父親はよくその話を聞いてくれた。

好きなものの話を聞いている時は、コミュニケーションの不和は起こらない。
誰の眉間にも皺は寄っていなかった。

私は会話がしたい。
好きなものについて話したいし、好きなものについての話を聞きたい。
好きなものがどんどん増えて、その共通項が見えてくるほどに、自分自身の輪郭が掴めるような興奮と安息があった。
そこには不和は無く、命綱のような愛情だけがある。

きっと美術についても同じだった。
ただそれだけだった。

そう思った時、私はまた本を読むことができた。漫画を読むことができた。映画を見ることができた。ゲームを楽しむことができた。
美術についてはまだ少し怯えているところがある。やはりまだ少し直接触れるのが怖い。
けれど美術について本を読んだりすることは出来た。また少しずつ展示を見にいったりできるようになりたいと思う。
変わってしまっていたのは私の心であり、美術の魅力は当然変わらずそこにあり続けている。
ゆっくり取り戻していこう。また好きなものに触れ直して言葉にしよう。

そして、このブログを立ち上げるに至った。

今も私はうまく動ける日とそうでない日を激しく揺れ動いている。
まだうまく触れることができない事もある。得体の知れない不安と焦りで掻きむしられるような日の方が多い。
けれど、今は崩れていた重心をほんの少しだけ戻せた気がする。

できればそう遠くないうちにまた、ギャラリーで好きなものについて会話をしたい。
好きなものについての話をして、好きなものについての話を聞かせてほしい。
自分の形を探しながら、あなたの形を教えてほしい。
そう思っている。これからもずっと。

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