思弁逃避行

[#08]おかわり -思弁逃避行-

2022年12月23日

彼はきっと死のうと思ったのではなく、生きるのをやめようと思っただけなのだろう。

そう思いながら私はラーメンを啜っていた。

一時期、私は彼と二人でルームシェアをしていた。
彼が引っ越して来た時、空き部屋に持ち込まれたのは、衣類(恐ろしくダサいパーカーが何着も)と漫画(宇宙兄弟とねむようこの作品シリーズ)、それとダンベル(5kg)くらいだった。

彼はこれといった趣味は特になく、強いていうのであれば筋トレくらいだった。
大学在学中に世話になっていたバイト先を卒業後も続け、社員への勧誘をいなしながらフリーターとして生活をしていた。
在学中は舞台役者として演技を学んでいたが、卒業後は演劇を続けることはなかった。
「同期で舞台を続けている奴らを見ていると、俺にはあいつらと同じほどの熱量はないし、続ける理由もないかなと思う」
彼はべつに悲しそうでもなく、悔しそうでもなく淡々とそういっていた。

また、高校時代は軽音部に在籍していた彼は、ベースを弾いていたようだ。
しかし私がベースを貸して、戯れに彼に弾いてくれと言ってみても、乗り気になることは一度もなく「バンドもやってないし、もう弾く理由もないしな」とこれも淡々というだけだった。

彼はたまに急激にゲームや漫画にハマることはあったが、クリアしたり熱が冷めると中古屋へ売りに行き、嘘のように何もない(散らかった服とダンベルだけの)部屋に戻るのだった。

そんな彼は特に熱中するものがない冷めた性格の人間かと言われると、そんなことはまるでなかった。
クールぶっている割には気づけば誰からにイジられ、また彼も誰かをイジり、誰かの冗談には気持ちよさそうに笑う、そんな風に楽しそうにしていることの方が圧倒的に多かった気がする。

だからもし「なんでやめちゃったのさ」と聞いても、「続ける理由もないしな」と返されるかもしれない。
きっと彼は死のうとしたというよりも、生き続ける事をやめてしまっただけなのだ。

もう1年ほど前だろうか。彼は一度失踪した事があった。
それはちょうど私とルームシェアをしていた時期で、私は彼が帰らないことに違和感を感じながらも2日間ほどは実家に帰っているのだろうと思い特に何もしなかった。3日が過ぎた頃、異常を感じて連絡などを回し、結果的に翌週あたりに彼は無事に見つかった。
死のうとしていたらしい。
彼は発見後一週間ほど実家でゆっくり過ごし、また私と住んでいたルームシェア先に戻ってきた。
彼は玄関でひとしきり泣いて、落ち着いてきたら畳の上で深くタバコを吸い、「俺の大冒険、何から聞きたい?」と冗談をふかしてきた。
私は少し笑って「全部聞かせてくれ」とだけ返し、それから先はずっと相槌を打ち続けた。

死のうと試した事はことごとく失敗したこと。
偶然母校の嫌いだった先生とすれ違い、「このまま死んだら最後にあった知り合いはあの人になるのか」とちょっと悔しくなったこと。
ふとワンピースを立ち読みして最終回が気になったこと。
どんどん死にたいのかが解らなくなっていって、死ぬ必要も度胸もないことを知り、気付けば実家の近くに辿り着いていて、偶然母親に発見されたこと。

最後まで彼は死のうと思った明確な理由は話そうとしなかったけれど、その大冒険の道中で彼が「もうちょっと生きてもいいかな」と揺らいだきっかけはどれもくだらなくて、私はそれに深く安心したのを覚えている。

それなのに、ついこの間、彼は成功してしまった。
色々な感情がぐるぐる回りながら、自分の中には「ずるい」という気持ちがあった。
「あいつ、いち抜けやがった」
私はどこかでそんなふうに思っていた。

自分は色々なことで一杯一杯で、もう全てが意味のないような気がしてきてもリタイアせずにいるのに、なんでお前がと思った。

私は好きな漫画や小説や音楽や美術家も、書籍を集めてCDを集めて本棚にはしこたま並べた。美術も音楽も文筆も、始めてみたり活動してきたものに手がつけられなくなっても、未練がましく集めた物や肩書きを残し、何も捨てることができなかったのに、彼はポンポンと潔く趣味も経験も捨てて辞めていって、しまいには退場してしまった。

きっと私にとって彼のその潔さには妬みと同時に羨ましさがあった。

同じ轍を踏むまいと日々を続けてはいるが、それほどしぶとく屈強な人間ではない。
私は決して続けることができる人などではなく、単に何かを捨てる事が怖いだけの人なのだ。

大勢の人が彼を弔っていたが、それを彼は知らない。
馬鹿だと思う。

そんなことを考えているうちにラーメンはほとんど食べ終わってしまった。
ふと丼の中を覗いてみると、内側に文字が書いてあった。

「明日もお待ちしてます。」

こんな脂っこいもの明日も食べなきゃいけないのか。

幸せには真っ先に慣れていくのに、辛いことには一向に慣れることができないのは人間のシステムバグだと思う。
何かのふとした拍子で、生き続けることが馬鹿馬鹿しく思えてきてしまうことがある。
けれどそれと同じくらいに馬鹿馬鹿しいことが生き続けることのきっかけになり得てもいい気がする。

私はワンピースがどう完結するのか気になるし、最後は一番好きな人といたいし、明日もラーメン屋が私を待っているのだ。

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