名前をつけるということは、居場所を与えることに等しい。
誰かがまたそれを指して呼ぶことがある。
それを他と区別して認識する必要がある。
そういったときに名前は付けられる。
認識したものに名前が付くことで、次の居場所に連れていくことができるのだ。
そんなことを考えながらスーパーをうろついていると、また嫌なものを見つけてしまった。
「フロランタンみたいなケーキ」
不安になる。
これはもはや商品名と呼んでいいのだろうか。
「ブロッコリーみたいな野菜」という名でブロッコリーのような野菜を売る農夫がいたらどう思うだろうか。
怖すぎる。
きっと私はすぐさまJAに連絡を入れるだろう。
清水義範の『バールのようなもの』(のち立川志の輔の落語『バールのようなもの』)を思い出す。
「バールのようなもの」と言ったらバールではない。
「パソコンのような」と言ったらパソコンではない。
「フロランタンみたいな」と言ったらフロランタンではない。
じゃあこれはなんなのだ。
つまりこの商品は、ケーキであるにもかかわらず「ケーキとしての名前」としての名前を与えられず、この世に産み落とされた迷い子に等しいのだ。
フロランタンのような構造・味・見た目をしているケーキができたので「フロランタンみたいなケーキ」と名付けよう!じゃないだろう。
それはもう名付けてないのと同じじゃないか。
彼のような悲しい存在とは逆に、名前を与えるべきではなかったものもこの世には多くある。
その一つが「フーリガン」だ。
フーリガンとは、サッカーの試合の内外で暴力的な言動をとる、いわゆる暴徒たちのことをまとめて指す言葉だ。
要はスポーツで熱くなりすぎて、あらゆる判断がつかなくなってしまった阿呆らのことなのだが、問題はこのフーリガン、名前がカッコ良すぎるのだ。
サッカーにあやかり暴れることで「フーリガン」と呼ばれる。
もしも自分に「フルーツぽんの助」というあだ名がついていたらどうだろう。
いっそのこと「フーリガン」になり、この汚名に近いあだ名を上塗りできないかと血迷ってもおかしくはないのではないだろうか。
暴徒たちにかっこいい名前をつけてしまったことで、廃れるべきである彼らの風習に居場所ができてしまった。
これは名前をつけるという行為の中でもわかりやすい大失敗の例だろう。
一刻も早く「フロランタンみたなケーキ」にケーキとしてのきちんとした名前を与えてやって欲しい。
そして、願わくば「フーリガン」という名前を「フルーツぽんの助」などの情けない言葉に変更してやって欲しい。
それを祈るばかりだ。