漫画

人は生きることで役割を演じ、またそれに生かされる -『ファイアパンチ』作:藤本タツキ について-

2023年2月24日

超話題作『チェンソーマン』の作者、藤本タツキ氏がジャンプ+にて連載していた作品、それが『ファイアパンチ』である。

私は『チェンソーマン』にしっかりハマって、アニメも無茶苦茶楽しんだのだけれども、それでもやっぱり『ファイアパンチ』を初めて読んだ時の興奮を忘れらずにいる。

とんでもない漫画に出会ってしまった…という衝動があった。

ポップでハイテンションに仕上がっている『チェンソーマン』に比べて、本作は好みの分かれる作風に振り切っているので『チェンソーマン』はハマったが『ファイアパンチ』はハマれなかったという人も全然いるだろう。

しかし、先日ふと読み返したときに「やっぱりこの漫画はすごいぞ」と震えたので、今更ながら紹介したいと思う。

この漫画は序破急の三章で構成されていて、その度に主人公の目的や行動原理が変わっていく。

復讐劇として幕をあける序章。
神を演じて民衆を救おうとする破章。
全ての役割が移り変わる急章。

この漫画は話が進むほど、それ以前の話を覆すような展開が多く出てくるため、混乱するかもしれない。
けれども、ずっと通して描かれているのは「人は何かの"役"を演じることで生かされている」という一つの真理だ。

多重化していく主人公像と、それぞれの顔が望む自己実現に翻弄される生が、ドラマを作る漫画だ。

あらすじ

『氷の魔女』によって世界は雪と飢餓と狂気に覆われ、凍えた民は炎を求めた―。

再生能力の祝福を持つ少年アグニと妹のルナ、身寄りのない兄妹を待ち受ける非情な運命とは・・・!?

衝戟のダークファンタジー、開幕!!

https://www.shonenjump.com/j/rensai/list/firepunch.html

この漫画の舞台は、"祝福者"と呼ばれる能力者がまれに存在するという世界。
再生能力であったり、炎を出したり、電気を発生させたりするという少年漫画的な超能力だ。

世界は「氷の魔女」と呼ばれる祝福者によって寒冷化が進み、それに打ち勝つための戦いを王国が続けているため、王国は栄えている一方、小さな村では終わりの見えない貧困が続いている状態だ。

主人公はそんな貧困の村に住む、再生の"祝福"を持つ兄妹の兄、アグニ。
彼ら兄妹は貧困の街を救うために、再生が効く自身の腕を食用の肉として村に配り飢えを凌いでいた。

その貧困の村に訪れた王国の兵士ドマは、その食人の文化を知り、「こいつらは人ではない」と村ごと焼き払ってしまう。
ドマの持つ"祝福"とは、灰になるまで消えない炎を出す力であり、村もその住民も全て灰になってしまう。

ただ一人、再生の"祝福'を持つ主人公を除いて。

同じ再生能力を持ちながらも、その能力が弱かった妹のルナは最期にアグニに「生きて」と言い残し灰になってしまう。

永遠に再生し続ける身体に、永遠に燃やし続ける炎を灯して、主人公のアグニは復讐のために王国に向かう。

すゝめ

この漫画のすごさとは、生きることに縛れられる主人公を最後まで描き続けたことだろう。

本作は全8巻の完結済みの作品なので、それほど長いわけではない。
けれども一冊一冊と話が進むごとに主人公像やその目的がガラッと変わっていく。

1巻はあらすじ通り、主人公アグニが復讐に燃える話だ。

しかし2巻からトガタというキャラクターが登場し、その物語を壊し始める。
彼女はアグニを「ファイアマン」と呼び、アグニを主人公にした(ドキュメンタリー的な)映画を撮影するために行動を始める。
1巻では真剣に向き合っていた復讐の物語が、トガタによって"演出されたコンテンツ"として扱われるのだ。

そして3巻以降では、彼の戦いを見た民衆がアグニを神として崇め始める。
復讐の顛末についてはここでは語らないが、アグニは民衆のために宗教の教祖を演じることを強いられる。

この世界で生きて、家族を思い、愛する妹の兄として生きた"アグニ"
そしてその世界でトガタが撮ろうとする、劇中劇の主人公としての"アグニ"
さらにそれを覆う、民衆が救いを求める神としての"アグニ"

彼の復讐の空虚さが物語の序盤から何度も明言されながらも、触れるものを全て灰にするその身体でアグニは、妹のルナと交わした「生きて」という約束を糧に、生き続ける。

何のために、何者として生きるのか。
この世界で何者であろうとするのか。

このシリアスな問いに対して、本作でとても良いバランスをもたらしてくれるのがトガタというキャラの存在だ。
トガタも300年ほど生きている再生の祝福者で、作中で唯一過去文明にあった"映画"を知っている、大の映画好きだ。(作中でも映画の台詞引用が多い)
彼女は"アグニを主人公にした映画"を撮影しているため、その都度アグニの行動や民衆の反応をメタ的に茶化したり、強引に動かしたりする役割を持って動き回る。

登場人物のほとんどが、生きる希望を持てずに生きながらえる世界の中で、唯一彼女は"撮影している映画の面白さ"の為、世界の枠から一歩外に出たように生き生きと動く。
そして物語を俯瞰してアグニに役割を与えていた彼女が、次第にこの物語を動かすキャスト側へと溶け込んでいく。

演じることの自体が持つ、真と偽。
演じることによって生まれる、真と偽。
演じ続けることで生まれる、真と偽。

これらが主人公アグニを何度も迷わせ、何度もその顔を作り直していく。

選択肢のない世界と、自ずと割り振られていくそれぞれの役割。
生きる為だけに、ずっと何者かを演じ続けた主人公のその最後までを是非見届けてほしい。

レビュー【ネタバレあり】

ここからは具体的なシーンなどに触れていきます。
作品をまだ見ていない方にはおすすめしません。

私が本作で一番好きなのは、トガタの持つコンプレックスを知ったアグニが、彼を呼び戻すシーンだ。

-トガタ
いーよ 戻ってやるよ…

ただちょっと疲れた

君と話していると退屈はしないけど…精神が疲れる
もう歩けない

 -アグニ
じゃあ…
歩けるようになるまで話そう

俺は俺のことを話すよ…

-トガタ
私は………
私のことを話せない

だから……
映画の要約を話す

"遠い昔 遥か彼方の銀河系で…"

『ファイアパンチ』5巻 作:藤本タツキ

粋すぎる。

バチクソおしゃれなやりとりだが、それだけではないのがこのシーンの魅力だ。
この作中でも格別に"変なキャラ"であるトガタのことを描写する為に必要な会話だと言えるだろう。

自身の性自認についての問題を何よりも大きな悲劇として抱えていたトガタは、もしかすると「自分は"女"だから主人公にはなれない」という意識がルーツとしてあったのかもしれない。

自分の見た目が嫌で嫌で、頭がおかしくなって、もうホントの自分のことを思い出せない。
そう語るトガタも、アグニと同じように世界に受け入れられるため、また世界を受け入れるために「ひょうきんでイカれた女」という役割を演じていた。

彼はもう自分で本当の自分のことを描写することが出来ない。
彼が語り得る確かなものとして残っているのは、映画だけなのだ。

また、演じることの果てしなさも本作では深く掘り下げられている。

読者としてアグニに抱く"本当の自分"というイメージは、復讐に燃える以前の"兄としてのアグニ"として印象付けられていた。

しかし、終盤、昔の写真を見た彼は、"兄としてのアグニ"もまた妹のために役割を演じ続けていたことに気付く。

復讐を果たすために殺意を持って名付けた「ファイアパンチ」という言葉が、悪魔として恐れられる名前となり、神として崇められる名前となる。
そしてその名が生んだ悲劇によって手に入れた、新しい自分(ニーサン)は「ファイアパンチ」を殺すという矛盾した存在意義を持って生を持つ。

彼は約束を守り生きるためは「ファイアパンチ」を殺さないといけない。
そのために彼は顔を剥ぎ、「ファイアパンチ」に成らなくてはいけなかったのだ。

「ファイアパンチ」という悪役の像を倒す為に、彼は再びファイアパンチとして戦う。
ファイアパンチの宣教師にとして地位を獲得したサンをも消して、やっとアグニはファイアパンチとしての役割を果たし、同時に「ファイアパンチ」という悪役を消すことが出来たのだ。

そして、サンという名前を与えられた後、彼はひたすらに生き続けた。
ユダ(ルナ)も役割を果たし、永遠を生き続けた。

二人は多くの役割を演じ続け、それによって生き続けなければならなかった。
やがて全ての役を終えることで、二人はやっと再び出会い、生きることをやめることが出来たのだ。

この作品は、生きるということは、何かを演じ続けてしまうことだと言っているように思える。
人は生き続ける限り、その都度その環境その対象の為に顔を作り、名を冠し、演じ続ける。
役割がまた役割を生み、演じることで人を生かし生かされる。

人の死は、役割を演じ切ることなのかもしれない。

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