随筆

男性病「合理的イキり仕草」について

合理的な性格。 それはとてもスマートに見えるし、フィクションの世界でのキャラ設定だととても言動の一貫性が魅力的に見えたりしやすい。
けれども現実の人間として完璧に合理的な判断や選択をしている人間などほとんどいないのではないだろうか。

それにもかかわらず、合理的な性格っぽくみえる(もしくはそう振る舞っている)人は散見する。
前提として、何かをするにあたって「それをやるのは実質無意味だ」「実はこういう行為は無駄なことだ」などと落ち着いた態度をとることは決して無駄ではない。むしろ大切な要素の一つだったりもする。
無駄を省くことが必要な場面は多くある。 ただ問題なのは、無駄を省く必要がない場所でもそういった合理的人物像の振る舞いをしてしまうことだ。
この問題は私が男としてこれまでの人生を生きてきて、実感する「きわめて男性に発症しやすい病」である。

合理的な人物像をロールプレイすることで精神的な自己防衛を続ける、拒絶的かつ虚栄的な行為。いわば「合理的イキり」である。

普段見えていない無駄な部分を可視化する作業は労力が必要だったりするけれど、別に隠されてもいない無駄を見つけるのは容易なことだ。
そんな誰もが無駄とわかって飲み込んでいるものをわざわざほじくり返しては自信の生き方を披露するかのような顔で「そういう無駄は省きました」と振る舞うのはとても幼稚なことではないだろうか。
けれども男社会の中ではいかにスマートであるか、否、スマートっぽくあるかが重要視されるカスのような意識が浸透しているため、合理的な人間ぶって物事を“あえて”選ばないことを振る舞うのが一番コスパのいいイキリ方なのだ。
なぜならスマートである為に必要である肝心の努力をしなくとも、その努力の無用性をたらたらと述べるだけでポーズが決まるからだ。

こういった振る舞いのなかで、鬼の首を取ったかのように振り回される“合理的に理詰めされた正論”は、ある種のゴールのように見えかけることが多々ある。
しかし実際にはその“合理的に理詰めされた正論”こそが人間が営みを展開していくスタート地点なのだ。
合理的に進めばここに行き着くという事実を始まりに、けれどもその途中で落としていったものは何なのだろうか、削り落としてしまった部分への焦燥は一体何なのだろうかと、再び拾い集めることが文化の礎になっていく。

無駄に見せることや、本来は意味のないことが足を引っ張ることももちろんある。
そういったものは現状と見合わせてしっかりと選定をしていくべきではあるだろう。
けれどもその選定の先に芽吹いた無駄や儀式的な意義も確実にある。それを見落とし「無駄だ」と切り落とすことだけは無いようにと私は心に留めておきたい。

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