随筆

湯気が止む -京都で8年半続けたアートスペースを閉めた話-

2025年9月1日

2025年8月31日。

2017年から個人で立ち上げ動かし続けていたアートスペース「Alternative Space yuge」を閉めた。

京都の下鴨で5年間、東山に移転してから3年半。
かれこれ8年半にわたってyugeというスペースと共にあった自分だけれど、いまやっと息継ぎができたような気持ちでいる。

先に書いておくと、また何か別の形でスペースを運営したり展示を企画したりしないのかという質問をいくつか貰ったりもしたけれど、少なくとも現状はその予定は無い。
もし仮にまたスペースをやるとしたら私が「むちゃくちゃお金持ちになった」もしくは「美術で金儲けしたくなった」という場合だと思うので、どちらも無いことだと思う。
美術で何かをしようとすること。集団で何かをするということ。これらすべて今の私には手に余ることだと痛感している。

きっといつかまた何かを作りたいと思うタイミングはくるだろうとは思う。
けれども今は、確かな生活だけを残し、荷物を下ろし、スピードを落とし、すぐそばで静かに流れる景色を眺めていたい。

そんな中でも書き留めておきたことがあったのでここに残しておくことにする。

ひとまず

まず、これまでの展示やイベント、公演の数々はもちろん、移転やメンバー入れ替えなどの内状でも本当に多くの人々が関わってくれました。そしてとんでもなく多くの迷惑や混乱に巻き込んでしましました。本当に申し訳ありませんでした。
そして、そんな中でも力を貸していただき、yugeという場所を遠くへと引っ張ってくださって本当にありがとうございました。

時間がかかるとは思いますが、それぞれに伝えないといけない言葉が私の中にたくさんあります。
またどこかで一人一人とゆっくり話しが出来たらと思っています。

どんな場所でありたかったのか

yugeについてと、それが立ち上がるまで

yugeは私が二〇歳の時に立ち上げたスペースだ。
芸術系の大学で立体造形・現代美術を専攻し、制作を続けていた中で、作品の物体として成果だけでなく、それが設置されること、発表されること、公開されることについての感心から"場所"を立ち上げることにした。

最終的なきっかけは「不動産サイトで店舗スペースと住居スペースのある良い物件がちょうど見つかった」という成り行きに近いものだったが、当時学生なりの不透明さで改装、オープンまでかこつけた。

そもそも京都は芸術系大学が多く、当然学生作家も多い。
けれども学外での展示の機会をどう手にしたら良いのかがわからなかったり、わかったところで精神的・金銭的なハードルが高かったり、そもそも学内展示で満足してしまったりという諸々が足枷になることが多かった。

そんな学生作家の最初の関門となる学外展示に必要不可欠な場所がギャラリースペースだ。
ギャラリースペースはざっくりと分けて2種類。コマーシャルギャラリーとレンタルギャラリーがある。
専属作家を抱えて、その作家のプロモーションやマネージメントをしながら展示を開催していくコマーシャルギャラリー。(例えるならミュージシャンを管理するレコード会社のようなイメージだろうか)
そして場所貸しをしているレンタルギャラリー。白い壁やスポットライト、ガラス張りの内装で、借りた人が自由に作品展示をして人を呼んだりすることができる。

学生が自主的に活動するのならば大抵が後者のお世話になる。
ただ、お金さえあれば利用することが出来る場合がほとんどな反面、当然プロモーションやマネージメントなどをしてくれる訳でもないので、結局身内が集まる小規模なお披露目会になってしまうなんてことも珍しくない。

ではそういった内輪だけでの作品発表では無く、コマーシャルギャラリーからのオファーや、企業の仕事、予算のある制作プロジェクトなどに辿り着くまでどうすればいいのか?
制作にも費用がかかる。生活にも当然費用がかかる。そうなると実験的な制作や、販売形式が難しい作品の検証、新作シリーズのレスポンスを確かめるため、その度ギャラリーをレンタルして展示をするということも厳しい。
けれど(制作は孤独な行為だったとしても)作品というものは閉ざされたものであってはならない気がした。

そういう訳で私はyugeという場所を作り、学生には格安でのレンタルスペースをしながら、自身でも若い作家に声をかけ、場所代を作家から貰わずに進めていく企画展をしていくことにした。
未だ見ぬ水面下の作家にもフォーカスをし、狼煙のようにその熱気が立ち上る場所として。

商売がしたいのか?

できるだけ開けた場所として動かし続け、かつ自分の足で展示を回り、作品を見て作家と話し、その作家が何を面白がって制作をしているのか、何を見据えているのかに寄り添い、展示を作っていく。
5年を向かえたあたりで移転をしたりしながら、次第にyugeはレンタルよりも企画展として回していく事がほとんどになり、私自身は他のギャラリーでの展示企画の仕事などで生活をするようになっていった。

するとだんだん明確に理解していく。
ギャラリーは生活を支える商売にはならない。

ギャラリーの収益は基本的に作品販売の仲介料だ。
展示の企画をして作家を呼ぶ。そして作品を制作して貰い、展示を作っていく。そこに鑑賞者が来て、作品を購入して貰えればその中から30%前後を貰う。(このパーセンテージは場所によりけりで、コマーシャルギャラリーだと50%前後とる場合や、百貨店の催事だと60%前後とる場合など様々)

ただ、まず一つの問題として、美術作品を買う人がどのくらい居るだろうか。
まず(作家にもよるが)数十万の作品を買い物できる層がいて、その人に展示や作家の存在を知ってもらい、展示日程に展示会場に来て貰う。そして作品を見て、その作品を展示(もしくは保管)できる空間を所有していてやっと購入が決まる。

すべての商売が同様に難しい問題ではあるが、美術はそこへの道筋が極めてか細い。

賢く売れそうな作家を見極めて、富裕層にウケる展示を打ちまくるのも一つの手だろう。実際コロナ時期には若手の絵画作家を中心にアートバブルと呼ばれる盛り上がりがあった。
けれども、それを繰り返せば、コレクターやギャラリスト達が若手作家の作品の価格をいたずらに引き上げ、バブルがはじけた後はだれも居なくなっていて、その作家の継続的な活動を誰も支えてくれないなんて状況を作りかねない。
そんな状況を打破しようにも、作家はギャラリー側から販売しやすいサイズやシリーズ展開を要求されて、新しい作品に踏み出せなくなってしまったりもする。
まるでリズムネタで売れた芸人のようなジレンマだ。

また作品の形式についても大きな問題を抱えている。
美術の中では比較的展示や保管がしやすい形式である絵画がイメージとして先行しやすいが、彫刻作品の場合はどうだろうか。さらに空間演出であるインスタレーションやパフォーマンス作品なんて尚更販売が難しい。
音楽に歌謡曲もあればジャズもロックもあるように、美術には絵画も彫刻もパフォーマンスもある。
どれも同様に美術であり、どれもに作品発表の可能性や活動の余地があるべきだと私は思った。

もし私の根幹が「ギャラリーという商売をしたい」という気持ちであれば、私は売れる作家を探し出し、目を引く展示を企画して、購買意欲をそそるために若手作家作品の価格高騰について来場者にプレゼンしただろう。
けれどわたしはそうではなかった。
面白い作家が面白い構想を元を面白い作品を作っていて、それをどこかに接続したかっただけなのだった。その過程にギャラリースペースというハブがあり、そこで広げられる営みこそが愛おしかったのだ。

わたしは生活のために他のギャラリースペースで仕事をしながら、yugeという場所は作家と向き合う為の場所として残し続けようと思った。
彼らが美術の何に惹かれ、またそれぞれが美術意外にもどんな領域に感心があり、それらがどうアウトプットされるのかが楽しみで仕方なかった。
ギャラリストやコレクターとの政治も忘れて、販売形式にも強制されることなく、試したい物事を外に出す。
そんな場所として、このオルタナティブスペースが存在できたら嬉しいと願っていた。

yugeの成果とは何なのか

燃料はすでに空っぽ

最終的にyugeは閉じることになった。

当然yugeの家賃や光熱費が毎月かかる。
下鴨時期から東山時期にかけてそれらは生活を圧迫しながらも発生し続ける。時期によっては二階の住居スペースや事務所スペースをシェアするメンバーと共に家賃を払いながら、ギャラリースペースを維持してきた。

前述したような活動スタンス故に、コンスタントな収入はyugeでは発生しない。だがそれだかこそ縛られず追われずに出来ることがあるとも信じていた。
けれどもそんな私の願望の為に、共に毎月の燃料を費やしてくれる人たちがずっと一緒に居てくれる訳では無い。現実的に至極あたりまえな事である。

単純な話、立ち上げ当初から解散に至るまで、yugeは一瞬たりとも自立出来ていなかったのだ。
文字通り、中身もガワも他者に支えられ、もたれかかった状態で甘えてしまっていた。

改めて、いままでyugeの二階で共に生活をしてくれた人々、そして共に事務所として過ごしてくれた人々すべてに感謝しなければならない。
本当にありがとう。たくさんのご負担ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。

どこにも辿り着かなかった

yugeは最終的に京都のアートシーンになにか影響を与えた訳でもなければ、有名人気作家を大量輩出した訳でもない。私自身が大きな何かを任される存在になっていった訳でもなく、途中から立ち上げた運営チームがコレクティブとしてどこかに名を残す訳でもなかった。

今挙げたどれもがyugeの目標ではなかったし、わたしもそこを目指していなかった。
だれかが指さし見上げるような場所には、どこにも辿り着かなかった。

実際私はもう美術にまつわる仕事をすべてやめて、yugeもしめて、生活に専念することにした。
それで生活が成立するのだ。なんならそれらをすべてやめた今の方が快適に生活できる。

じゃあ逆に、私が続けてきたコレは何だったのか?

何でも無かった。 曖昧なもやのようなものであった。地に足の付かない、不安定なものであった。どこを歩いているのかもわからなかった。どこに向かっているのかも知らなかった。

ただ、空洞では無かった。
ただ、その確かな距離のなかで見た景色はあった。

それらを満たしてくれたのは、その景色を見せてくれたのは他でもない多くの作家たちだ。

絵画、彫刻、陶器、演劇、インスタレーション、ショップ、コント、パフォーマンス……etc.

沢山の作品が、yugeの空間を満たしてくれていた。
それが入れ代わり立ち代わり場所を彩り、人が巡る様を見せてくれた。
yugeという場所や私が何かに成ることはなくとも、こんなに遠くまで連れて行ってもらえたんだと本当に感謝しています。

無邪気で無計画で無謀で無神経な時間だった。

けれどなんて充実した喜びだっただろうか。
なんて充実した痛みだっただろうか。

儚く散り散りになってしまったyugeというこの場所の名前、そしてその空欄がなにかで満たされる事の証明にと名付けたhogeという活動屋号の名前をここに残す。

今、立ち上らせ続けた湯気は止まり、視界の先は寂しくも、霧が晴れたように澄んでいる。

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