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"不可能性"が作る自身の人生の形をどう変えるか -『四畳半神話大系』について-

2023年3月12日

私が京都で生活を始めてから随分経つが、京都生活の嬉しいさTOP10にはきっと、『四畳半神話大系』をテンション3割増で見返すことができることが入り込むだろう。

中村悠一氏のファンだった高校の同級生が勧めてくれて、初めて視聴した時はそれはそれで感動したものだけど、今では「鴨川のデルタだ」「木屋町のあの辺だ」「出町柳のあのラーメン屋台だ」「この焼肉屋は多分さとのやだ」などと思いながら見ることができるのが更に嬉しい。

そう思うと、東京で生活を送っている人は、ドラマやアニメやゲームで東京が舞台になるたびにこの「この辺り知ってる!」という優越感を感じられることにビビる。

ずるくない?

『ペルソナ5』が大好きな友人が、上京してからずっと「ペルソナじゃん!」と言っていて気持ち悪かったが、無理もない話なのかもしれない。

生活圏内が勝手に"聖地"になるとはなんてお得な日々だろうか。東京って恐ろしい。

私はたまに展示を見にいったりするために東京に行くことがあるけども、その度にとんでもなく疲弊して帰ってくる。
私が東京にビビっているだけなのかもしれないが、実際東京だけではなく、大阪や名古屋などの都市と比べても、京都はなんだか居心地がいい。

京都という街はそれなりに栄えている街だけれども、時間の流れがゆっくりしている気がするのだ。

モラトリアムに甘えながら、可能性に燻るパラレルワールドSFがここまで馴染むのは京都という街が舞台ならではなのかもしれない。

そんなわけで、今回は今更ながら『四畳半神話大系』のアニメを紹介したいと思う。

あらすじ

大学3回生の「私」は、薔薇色のキャンパスライフを夢見ながらも無意義な2年間を過ごしてきた。

入学した時に数あるサークルの中からテニスサークルを選ぶが、会話も出来ずに居場所を失くしていく。

そこで同じような境遇の小津と出会い、サークル内外で人の恋路を邪魔をする「黒いキューピット」の悪名を轟かせることに。

小津と出会わなければ黒髪の乙女と薔薇色の人生を送っていたに違いない!

もしあの時違うサークルを選んでいたならば…。

https://thetv.jp/program/0000005480/1/

京大生が主人公の本作は、京都の百万遍付近や、出町柳あたり(いわゆる学生の街と呼ばれるエリア)が舞台になる。

勉学に励むわけでもなく、サークルでのコミュニティに花を咲かすわけでもなく、恋沙汰も何もなく2年を過ごしてしまった主人公「私」が、3回生の春に過ごすエピソードが各話ごとに描かれる。

この作品はループもののような構造になっていて、基本的に1話でそれぞれのパラレルワールドの話が完結する。

テニスサークルに入っていた場合の私…
映画サークルに入っていた場合の私…
自転車サークルに入っていた場合の私…
変な先輩の下宿先に入り浸っていた場合の私…
そして、部屋に引きこもって誰とも出会わなかった場合の私…

それぞれの主人公が、どの世界でも思い描いたキャンパスライフを全うすることができず、どの世界でも悪友と共に燻っている日々にたどり着いてしまう。

「もしあの時に別の道を選んでいたら、こんなことにはなっていなかったはずだ…!」

そう叫んで話は閉められるが、どの道を選んでも彼は華々しい学生生活ではなく、じめっとした偏屈な日々に帰結してしまうのだ。

そんな並行世界が10話分、つまり10パターン描かれ、最終話の11話ではそれを見事に締めて見せる。

同じ登場人物や同じセリフのやり取りが、収束する可能性として何度も繰り返される作品なので、一気に全話を見ると中弛みを感じてしまうかもしれないが、最終話のたたみ方がなんと言っても見事なので、少しずつ進めて視聴するのが一番だろう。

ちなみに、最近劇場公開した『四畳半タイムマシンブルース』はアニメと共通のキャラクターが登場するが、これもまた並行世界の一つとして描かれているため、『四畳半神話大系』を見ていなくとも問題なく楽しめる。
こちらの方は90分の中編映画くらいの長さなので、そちらを見てからアニメをゆっくり見進めるのもいいかもしれない。

すゝめ

このアニメは主人公の「私」による語りがナレーションとして絶え間なく入り続ける。

原作小説は森見登美彦が書いているため、とても理屈っぽくて洒落臭い言い回しが常につらつらと続いている。
アニメとしてはとても珍しい演出ではないだろうか。

それがやかましく感じる人もいるかもしれないが、この演出を成立させるのが主人公「私」の声優を務める浅沼晋太郎氏の声質や語り口調の妙だろう。

ああでもないこうでもないと理屈をこね、自身の優柔不断さを誤魔化しながら、頼りなく流されるように行動を選んでいく主人公はなんだか他人に思えない。

そんな主人公をグイグイと悪の道へと引っ張っていく小津という悪友の存在も魅力的だ。
彼は他人の悪い噂ならばいくらでも知っていて、八面六臂の活躍で様々なサークルの人間関係を壊して回る悪趣味な存在だ。

しかしながらその小津はなんだか憎めない存在として「私」に付き纏い、どの並行世界でも「私」とつるんで何かをしでかす。

他にも個性豊かなフィクションらしい登場人物に囲まれ、「私」はどの道を選んでも思い通りの大学生活に花を咲かすことができない。
「私の大学生活はこんなはずではなかった!」と嘆くが、視聴者の私たちからすれば、どんちゃん騒ぎのその日々はなんだか楽しそうでもある。

そんなどこにいても現状に不満を漏らす主人公の大学生活の羅列が、一体どう締め括られるのかをぜひ最後まで見届けてほしい。

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レビュー

ここからは具体的なシーンなどに触れていきます。
作品をまだ見ていない方にはおすすめしません。

この作品が何を描いているのかを表すようなセリフが作中で登場する。

小津が師匠として慕う樋口から「私」に向けて言われるセリフだ。

「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」

何かになれる、何かができると願い、現状を嘆いてしまう我々だけれども、それは「可能性」という言葉を都合よく信じてしまうことが諸悪の根源なのだと樋口は語る。

どの並行世界でも違う選択肢をとっていた「私」も、選ぶことができるものからしか選ぶことはできない。

その場で存在しない選択肢に対して「選んでいたら」と嘆くことはできないのだ。
我々ができることは、存在する選択肢から選ぶことか、選択肢を増やすための行動を遂行するかだけだ。

物語の10話で主人公は、どの選択肢も選ばないという選択をする。

当然出会うはずの人には出会わず、何かを喪失することもなく、時間を貪り続けていた。

そして世界は他の並行世界に繋がり、無限四畳半地獄へと変わってしまうのだ。

そこに広がる、それぞれの世界で「私」が嘆いていた現状というのは、視聴者の我々が抱いていいたように、賑やかで楽しそうな日々として映る。

何も選ばず、選べない状況に閉じこもった「私」から客観的に見れば、あの悪友の小津もあくまで友人の一人であることは確かなのだ。

今まで悪魔のようなキャラクターデザインで描かれていた小津も、今までの偏見や他責意識から逃れた"選ばなかった「私」"からの視点ではキャラ描写が変わるのも良い演出だ。
あの小気味の悪い妖怪のような風貌は、「主人公目線での小津」であったのだ。

明石さんへの想いを有耶無耶にしていた他世界の私を報いるように、最後は明石さんを猫ラーメンに誘う。

「私」のキャンパスライフにはずっと小津と明石さんは存在する。
しかしそれは"悪友"という存在である小津と、"後輩"という存在である明石さんでしかない。

選択肢がない四畳半から外を眺め、自身を見る。そして自身を愛するために、その場所から自分の意思で動くという選択肢をとった「私」だけが、恋人と友人を手にするのだった。
そのキャストは、ずっと変わらずに「私」の行動が増やした選択肢によって、彼らに割り振られる役割が変化しているだけなのだ。

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