「ウナギがうまいのではなく、ウナギのタレがうまいだけではないか」
そんな主張を目にしたことがある。
みなも一度や二度考えたことがあるだろう。
確かにウナギの味というものを思い出そうとすると例のタレの味が覆いかぶさり、その記憶の中からウナギの味のみを取り出すことが上手くできない。
だとすれば、あのタレを付けさえすれば何だって我々が今まで「ウナギの美味さ」と信じていた感動を得られるのかといえばそれは違うような気もする。
例えばこんな主張をするものが現れたらどうだろうか。
「うまい棒がうまいのではなく、味付けの粉がうまいだけではないか」
何を言っているんだこの人は。
とたんに説得力が貧弱になってしまった。
もしこれに従って、うまい棒の味付けに使われている粉を餅にまぶして食べてみたとしても「不快な餅だな」と思うだけだろう。
仮に「なんだよ!こんなのほとんどうまい棒じゃないか!」と喝采する人がいるとすれば、一刻も早く「お前が今までうまい棒だと思って食べていたのは、うまい棒ではなくへんな餅だ」と教えてやるべきだ。
例えが遠すぎるだろうか。私も少しそんな気はしていた。
では仕切り直して、例えば「蒲焼さん太郎」という駄菓子がある。
魚のすり身を圧縮した板に味付けをして一枚十円近くで売り捌くという奇怪な商品の一つだ。
他にもシリーズとして「わさびのり太郎」「焼肉カルビ太郎」などがあり、「蒲焼さん太郎」を含む数点のみが何故か太郎の前がさん付けで呼ばれている。
その名前の不可解さは今回は置いておくとして、この駄菓子の味付けはその名の通りウナギの蒲焼がモデルとなっている。
パリッとしたすり身の板にしっかり染み込んだ、醤油とみりんを使った甘辛だれに、微かにかおる魚の香り。
例のウナギのタレを使っているのだ。もちろん美味いに決まっている。
材料も魚なわけだから、ほとんどウナギの蒲焼と言えるかもしれない。
だが、果たしてこの美味さをウナギの美味さだと言ってしまっていいのだろうか。
そう、これは間違いなくウナギの美味さではなく、「蒲焼さん太郎」の美味さだ。
ウナギの蒲焼にはあの食感や香ばしさ、脂のノリが必要不可欠。
そしてこの蒲焼さん太郎は決してウナギの蒲焼の模造品なんかではなく、駄菓子としての美味さがある。
完成されたものから何か一つを取り上げて文句をつけるなんて、そもそもナンセンスなことだったのだ。
また私は一つ大きなことを学ぶことができた気がする。
だがここで一つ思うのは、この「蒲焼さん太郎」の美味さ。
これはもしかすると「蒲焼さん太郎」がうまいのではなく、蒲焼さん太郎に塗ってあるタレがうまいだけなのでは?