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自我と"支配"から別の"支配"へ逃れること-『ファイトクラブ』監督:デヴィットフィンチャー について-

2023年2月5日

映画に登場するキャラクターの中でも、群を抜いて人気のある人物がいる。

それは『ファイトクラブ』に登場する、ブラットピット演じるタイラーダーデンだ。

本作品は、チャックパラニュークの同名小説を原作に、デヴィットフィンチャーが監督を務めた、1999年の映画だ。

叙述トリックで読者を唸らせた小説を、フィンチャー監督の演出の妙で見事に映像化している。
バイオレンス映画としても非常に完成度が高いが、そのトリックがミステリ的な持ち味ともなっている。

もしまだ作品を見ていない人にはネタバレを踏まずに視聴して欲しい作品なので、本記事ではネタバレ防止としてトリックに触れる描写について触れるのは、記事の最後の見出しからとする。
警告文も出すので、未視聴の方もぜひそこで足を止めて映画を見てからまた記事を読みに来ていただければ幸いだ。

あらすじ

おれを力いっぱい殴ってくれ、とタイラーは言った。

事の始まりはぼくの慢性不眠症だ。
ちっぽけな仕事と欲しくもない家具の収集に人生を奪われかけていたからだ。

ぼくらはファイト・クラブで体を殴り合い、命の痛みを確かめる。
タイラーは社会に倦んだ男たちを集め、全米に広がる組織はやがて巨大な騒乱計画へと驀進する――

人が生きることの病いを高らかに哄笑し、アメリカ中を熱狂させた二十世紀最強のカルト・ロマンス

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主人公は人生に退屈している、ごくごく普通の会社員。

彼はショールームのように家具や家電を集めて部屋を彩ることを趣味に、やりがいもない仕事を続けていた。

彼は不眠症を患っていて、いつもぼんやりと退屈極まりない日々を送っていた。

そんな中、彼はタイラーダーデンと名乗る男に出会う。
タイラーは彼に「おれを力一杯殴ってくれ」という。

それをきっかけに殴り合いをすることで"生"を実感できることを知る。
物に囲まれることが生きることではない、痛みこそが生だとタイラーに教えられた彼は、タイラーと共に「ファイトクラブ」を立ち上げ、鬱屈した人生を送る人たちを集め始める。

しかし、殴り合いでの発散と生の実感が目的だった「ファイトクラブ」は知らぬ内にタイラーによって拡大されていき、主人公も知らぬ内に大きな計画のために動き始める。

一体タイラーの目的とはなんなのか…?

『ファイトクラブ』予告編

すゝめ

過激な暴力、セックス、マッチョイズムが押し出され、物質主義を徹底批判する本作。

その演出の派手さやテンポの良さもあって、目も当てられないと思っている内にあっという間に終わってしまう映画かもしれない。

タイラーの突き抜けた思想や、暴力に嫌悪感を感じることや、説明をしすぎない演出に置いていかれる人もいるだろう。

しかしこの映画が物語っているのは、社会に反する暴力を促すことではない。
消費社会に飼い慣らされることや、それらを打ち壊すことよりも、まず自身を理解することが何よりも初めにあるということだ。

作中の言い回しを借りるのであれば、自慰行為でもなく、自己破壊でもなく、自己理解こそが必要なのだ。

タイラーダーデンは主人公からは出ないような発想や行動に溢れた魅力的な存在だ。
社会の中で迫害されるでもなく、飼い慣らされて、すっかり透明になってしまっていた主人公を解放してくれる。
また同時に同じような存在を集め、クラブを設立しリーダーとして皆を率いていく。

そういったカリスマ的存在の恐ろしさもこの映画では感じさせられる。

物への依存を脱却させられた人たちは、次第にファイトクラブ自体に依存するようになっていく。
社会の奴隷から、タイラーの奴隷にすり替わっただけに見えるが、「物質主義から脱出した」と信じる彼らはその妄信的な狂気に気付くことができない。

現在のSNS社会にも見られる"インフルエンサー"という存在とその周辺にも近いもの感じる。

果たして自己を確立させるものとはなんなのか?

エンディングは映画の中でも指折りの美しいシーンに、ピクシーズの名曲『Where is my mind?』が流れる。

ぜひその瞬間を見届けてほしい。

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レビュー【ネタバレあり】

ここからは具体的なシーンなどに触れていきます。
作品をまだ見ていない方にはおすすめしません。

この手のトリックというのは、今となってみれば珍しいものじゃないだろう。

最近の映画でも(といっても2013年作品だが)ドゥニヴィルヌール監督の『複製された男』などを思い出す。

しかしこのトリックの見抜ける見抜けないだなんだは割とどうでもよくて、これを演じるエドワードノートンの演技力が凄まじさが何よりも魅力的だ。
ブラピのいつもの色気をぶん回すような振る舞いも見ていて気持ちがいいのだが、本作はやはりノートンの"空洞"を感じさせられる狂気匂わす演技が恐ろしい。

上司に脅しをかける一人芝居のくだりや、終盤の監視カメラ越しの一人格闘の様子など、面白い演出にその演技が乗っかってさらに引き込まれてしまう。

タイラーはいかにも"俺たちを解放する代弁者"かのように振る舞うが、その破壊的思想も主人公が抱えていた空洞性によって生み出された人格ともいえる。
物への依存を抜け出した、アナーキーな思想は一見かっこよく見えるが、実際は彼らはタイラーの奴隷のように操られる。
彼らは物への依存を脱却したのではなく、依存先がタイラーに移っただけだったのだ。
空洞が空洞を呼び、失うものをなくした暴力的な衝動は"見境なく"社会を壊してしまう。
シリアスなようで、もはやギャグのようにも見える本末転倒っぷりだ。

支配から逃れるために抜け出した先で、新たに支配してくれる存在を探す。
そんな空洞の自我を持った人間にとって必要なのは、別の支配者を選ぶことではなく、自己との対面だった。

本作は、ラストシーンではタイラーがそうしていたように、男性の下半身がサブリミナルで差し込まれ終わる。
結局映画という媒体も、資本主義を活発化させる消費社会の中にしっかり組み込まれてしまっているという構造を、メタ的に示しているようにもとれて面白い。

まあ最後のは勝手な深読みかもしれないけれど、そういう余白があるのも素敵じゃないですか。

"タイラーダーデン"が私の前にも現れて自分を変えてくれないだろうか、なんて思ってしまいそうだが、自分が無いからこそタイラーは現れる。
私たちに必要なのはタイラーじゃなくて、自己との対面なのだろう。

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