アボカドという食べ物がある。
奴はハンバーガーに挟まれていたりサラダに紛れていたりと、様々な場面で顔をだす。
食感はしっとりとしていて、味という味はないに等しいのだが、もったりとクリーミーな印象だ。
これがさっぱりとしたサラダの中にあると食感にアクセントを、味にはまろやかさが足されて美味い。
しかしそんなアボカドにはおおきな問題がある。
奴はフルーツなのだ。
あいつのどこがフルーツだ!と声をあらげ、最寄りの壁を殴っている人もいるかもしれない。
落ち着いて欲しい。
奴は紛れもなくフルーツなのだ。
どうやら野菜と果物というものの違いは「木に成るか」「木に成らないか」という点にあるらしい。
そしてアボカドは木に成る。よって果物であるというのである。
分類というものは非情である。
アボカドがどれだけ肩身の狭い思いをしているのか想像しただけでも心が痛む。
奴の居心地の悪さったらないだろう。
なぜ奴がフルーツという分類に馴染めないか。それは明白である。
フルーツとしてのパラメーターがゼロに等しいからだ。
ご存知の通り、一般的にフルーツは「彩り」「香り」「食感」「甘み」「季節感」の五つでパラメーターが割り振られ、五角形のレーダーチャートを作ることができる。
例えばリンゴだとこうだ。(図1参照)
こういった形でフルーツをグラフに起こすことができる。
やはりリンゴはバランスがいい。
これに当てはめていくことで、それぞれの果物が持つ強みがわかる。
林檎系は食感のパラメーターが高く、柑橘系は香りが強い。
実にそれぞれの特色がわかりやすい。
そしてアボカドのレーダーチャートはこうだ。(図2参照)
悲しくなってきた。
まわりの果物たちがフルーツポンチやタルト生地へ和気藹々と飛び込んでいくさまを、アボカドはいったいどんな表情で見ているのだろうか。
中学の頃、やけに隣のクラスから遊びに来る奴がいなかっただろうか。
自分のクラスに馴染めず、同じ部活の仲間を求めて休みのたびにやってくるのだ。
それがアボカドだ。
しかしこれを見てしまえば隣のクラスに休みのたびに行きたくなるのもわかる。
奴はなにも悪くないのだ。
憎むべきは分類という概念である。
アボカドにはさして幸せになってほしい。
精一杯の気持ちで手に入れた奴の居場所を奪うことなど、誰にもできないのだ。
どうかサラダやハンバーガーなど、およそフルーツの居場所ではないところに奴を見つけたときは精一杯の優しさをもってして口に運んでやって欲しい。