漫画

好きなことと出来ることの狭間にあるもの -『ひゃくえむ。』作:魚豊 について-

2023年1月16日

その距離は 時間に権力を与える

その距離は 人間の価値を決める

その距離に 人生を懸けた

その距離  100メートル

『ひゃくえむ。』作:魚豊

この漫画はこのモノローグで始まる。

激アツである。

これだけでもうアツい。
ものすごいロマンを感じる。100m走ってかっこいいんだ、そう思わせられる魔力がある。

作者は『チ。-地球の運動について-』で有名な魚豊氏だ。

あの作品を読んだ人は、この作者がシーンを見せる上手さや、人間が抱える苦悩と感動の描写の上手さはもう痛いほど知っているだろう。

この作品は、"生まれつき"走るのが早かったトガシという主人公が小学6年生の時から始まる。

そこで出会う"走る才能がない"転校生のコミヤ。

努力をすることもなく100mで一位を取れるトガシと、「100mなら一番になることができるかも」とのめり込むコミヤ。

その二人が中学、高校、社会人まで陸上を続け、打つかるその試合までを是非読んでみてほしい。

果たして二人は「天才」と「凡人」なのか?

小学生の時に一度だけトガシとコミヤは徒競走をするが、その一回の"ただの本気のかけっこ"から二人の亀裂は始まっていく。

主人公のトガシは生まれつき足が早く、自分自身のことを「俺が他の人と違う点は"走るのが速いだけ"だ」と感じている人間だ。
100m走で一番になることでクラスの地位や名声を手に入れることができている現状に、なんの不満も不安も持っていなかった。

しかし、何も持たないコミヤが「100mで勝利を掴むことができれば自分にも、価値が生まれるかもしれない」という希望に狂気を見出したところからトガシの意識は途端に変わっていく。

自分が走ることが早くないといけない。
走るのが一番はやいことしか自分の需要はない。
一位を取り続けなければ自分は落ちてしまう。

小学生以降は長らくトガシとコミヤは再会をすることはないが、彼にはずっとコミヤの亡霊が取り憑く。

才能がないはずのあいつに、自分は負けていたかもしれない。

その恐怖で彼は陸上に真剣に取り組み、活動を続けていく。

コミヤから見れば憧れの「天才」であるトガシは、想像以上に「一番早く走れなければいけない」という呪いに縛られてしまうことになるのだ。

そして、この作品はとんでもないテンポで時間が進んでいく。
数話で小学生から中学高校と進み、社会人選手まであっという間で時間が経っていく。

その中でトガシはどんどんと自身の才能の枯渇を意識していく。

ただただ走ることに囚われて走ることを続けてきた彼はなんのために走るのか?

そして大きな大会で小学生ぶりに再会するトガシとコミヤ。

地位や安心に縋り、走ることを続けてきたトガシと、ただただ走ることだけを生きる目的に記録と戦い続けるコミヤ。

互いを見て走る人生が始まった二人は、次第に互いを見なくなっていた。
そして再び互いを認識し合うようになった最後のレース。

彼らがなぜ走るのか。
なぜ走らなければならないのか。

現実の呆気なさを描きながらも、漫画としてのロマンを正面からぶつけてくる100m走漫画『ひゃくえむ』を是非読んでみてほしい。

何のために走る?をひたすら問い続ける【ネタバレあり】

ここからは具体的なシーンなどに触れていきます。
作品をまだ見ていない方にはおすすめしません。

この漫画を読むと「天才」と「凡人」を痛々しいほどに描いた、松本大洋の漫画『ピンポン』を思い出す。

しかし、この漫画はピンポンのような「今この瞬間の意味」といったような濃縮された時間のアツさではない。
上述した通り、小中高から社会人までの走る人生が怒涛のスピードで流れていく。

その都度その都度彼らの中で浮かぶ「何のために走る?
これの答えがその度に掴んでは消え、掴んでは消えを繰り返すのだ。

小学生の時の価値、中高生の時の価値、社会人の時の価値。
その中で常に「自分が走る意味」の価値が揺れ動き続ける。

高校生編で話を終わらせても良いくらいの面白さだというのに、さらに才能が枯渇され、トガシはあんなに恐れていた「誰からも需要がなくなる」状態まで落ちてしまう。

それでも彼は走ることを辞めることができなかった。

自分の居場所を作るために走っていた彼が、自分の居場所を失った後も走り続ける。

そんな中で登場する海堂選手も目が離せない存在だ。

彼もかつてトガシのように才能に溢れ、ライバル選手と切磋琢磨をしてきたのに、今は才能が枯れ、圧倒的な差をつけられ誰にも注目されなくなっている。

トガシが彼からもらった助言を歪めて受け取り、楽をしてしまう描写があるのがこの漫画の魅力だ。
海堂の言葉はきっとトガシが受け取ったものとは意図が違っただろうが、それでもそれはトガシにとって一時的な「走る意味」を保たせる。

海堂の言葉に救われるのではなく、その後に自身の言葉で「自分の走る意味」を見つける。
これが無茶苦茶アツい。

そして最終試合。

繰り返される「100mだけ速ければ全部解決する」

彼らは100mに囚われ、人生の苦しみに揉まれ続けた。

自分のプライド、存在価値、地位、名声その全ての苦しみは、100mだけ速ければ解決できる。

でも自分が走るのはそれらを解決するためなのか?
なぜ自分は走るのか?

最後のレースのたった10秒の中で二人が答えを見つける。

この10秒でリフレインする二人の走る意味に手に汗を握ってしまう。

こんなにジメッとしたスポーツ漫画なのに、こんなに気持ち良いラストがあるなんてと感動した。

『チ。』も『ひゃくえむ。』も、人間が何かを追い求める美しさがそこに確かに描かれている名作漫画だ。

-漫画